「恐れながらも大いに喜ぶ」 07.04.08
マタイ28:1〜10
イースターは、教会のお祝いの日です。
しかし、最初のイースターの朝には、恐れがありました。
神さまが主イエスを復活させられて、空っぽになったお墓を
前に、恐れが人の心を捕らえました。空になったお墓を通して、
神さまの力が満ちていると感じたからでしょう。神さまに対する
罪、背き、負い目を抱えている人間は、神さまの前で恐れを
感じざるを得ません。
エデンの園の物語で、禁じられていた木の実を食べたアダム
たちが神さまを避けて隠れたようにです。人間に支配される
偶像の神であるなら、何も恐れることはありません。
しかし、生きて働く神さまとの本当の出会いは、罪ゆえの恐れを
人の心に生み出します。
そのように恐れる場面に「恐れることはない」との言葉が届け
られました。
罪があり神さまの前で恐れる人間にこの言葉を届けるために、
神さまは十字架と復活の出来事を起こされたのです。
恐れることがなくなったのは、十字架にかかって死んだ
主イエスが復活なさったからです。罪を贖う犠牲として十字架に
かかられた主イエスを、神さまは受け入れてくださいました。
それゆえ、罪赦された新しい命が与えられました。
神さまが罪を赦されたからこそ、すべての罪を担った罪人の
死から、主イエスは神さまによって復活させられたのです。
主イエスが復活なさったので、私たちはもう罪の中にいないのです。
それゆえに、神さまの前で恐れるしかなかった私たちに、「恐れる
ことはない」との言葉が届けられるようになりました。
生ける神さまに守られ、支えられ、導かれている安心の中で
すごせるようになりました。
主イエスは、ご自身のもとから逃げ出した弟子たちのことを
「私の兄弟たち」と呼ばれます。
三度主イエスを知らないと言ったペトロも含まれています。
彼らも、罪と背きの一切が取り除かれたからです。
あの弟子たちだけではありません。イースターに、私たちは、
主イエスから「私の兄弟たち」と呼ばれるようになった自分である
ことを知らされます。